日本ハム新庄剛志監督の父は新庄英敏さん、母は新庄文子さんです。新庄剛志監督の性格形成には父や生い立ちの影響が大きいようですが、父である新庄英敏さんはどのような人物だったのでしょうか。この記事では、新庄剛志監督の実家の家族についてみていきましょう。
現在、日本ハムを率いる新庄剛志監督は、現役時代から現在に至るまでとても個性的なファッションや言動でなにかと話題をよんでいます。
阪神の選手時代には、グラウンドの中でも外でも個性的なエピソードばかりが生まれることから、恩師である野村克也監督に「宇宙人だよ」とボヤかせたことも有名です。
あの独特な新庄剛志監督の個性は、両親の子育ての影響や生い立ちが大きく影響していることは間違いないでしょう。この記事では、新庄剛志監督を育てた父の新庄英敏さんを中心に母と姉がいる実家の様子、家族についてみていきましょう。
まずは簡単ですが、新庄英敏さんのプロフィールをみておきましょう。
1941年生まれ
福岡県筑後市出身
1972年新庄造園創業
異業種交流会「木曜会」会長などを務める
2011年8月5日に食道がんのために死去
新庄剛志監督の父である新庄英敏さんは、1972年に造園会社を設立しました。この年は新庄剛志監督が生まれた年でもあります。新庄英敏さんは自分で興した造園会社で、植木職人としても働いていました。
新庄剛志監督も実家で父の仕事を子供の頃から手伝っていたそうです。造園に使う木材などを運ぶ手伝いをするうちに握力が自然とつき、やがてりんごを片手で握りつぶせるまでになったといいます。
新庄剛志監督の野球の才能には、父・新庄英敏さんの仕事の影響も大きいようです。
また、植木職人として働きながら、合気道の先生もしていたとのこと。合気道では四段で指導員、六段で師範となることができます。新庄英敏さんは少なくとも合気道四段以上の段位を取得していた猛者だったようです。
新庄英敏さんは新庄剛志監督の父として、子育て本も出版しています。
画像の本は、新庄剛志監督がメジャーで活躍していた2002年に出版されたものです。
「子育ては木を育てるのと同じ」など植木職人ならではの視点での子育ての心構えや、プロ野球選手になりメジャーリーガーにまで成長した息子の野球人生をどのように愛情を持って支えてきたのか、ということがわかる1冊です。
現在は絶版になってしまいましたが、興味のある方は古書で探してみるといいでしょう。
野村克也監督に「宇宙人」と名付けられたほど、プロ野球界でもずば抜けた個性を発揮していたのが新庄剛志監督です。その驚くべき個性は日本ハムに就任してからも随所に見ることができ、プロ野球界を盛り上げるのに一役買っています。
その新庄剛志監督の性格には、父である新庄英敏さんの子育てや実家での生い立ちが大きく影響しています。父・新庄英敏さんや生い立ちがどのように新庄剛志監督の性格形成に影響を及ぼしたのかみていきましょう。
新庄剛志監督といえば、高級車を乗り回したり高級ブランドをたくさん身につけているイメージがあります。新庄剛志監督が高級なものにこだわる背景には、貧乏だった生い立ちが影響しているようです。
新庄剛志監督が語っている子供の頃の貧乏エピソードには次のようなものがあります。
新庄剛志監督といえば、赤色が好きな印象があります。
上下を赤のスーツやジャージで固めていることもあれば、ファッションのどこかにワンポイントで赤を入れていることもあります。
新庄剛志監督が赤色が好きな理由は、子どもの頃から赤い色の服をよく着せられていたためだそうです。
新庄剛志監督は子どもの頃から多動の傾向が強かったようで、小学校時代は9回も交通事故にあっています。
目を離すとすぐにどこかに行ってしまう息子を探しやすいように、父と母がした工夫が新庄剛志監督に目立ちやすい赤色の洋服を着せることでした。
毎日のように赤い洋服を着ているうちに赤色が好きになり、現在でもファッションに取り入れているそうです。
新庄剛志監督がプロ野球選手を志したのは、父の新庄英敏さんの影響が強かったためです。新庄英敏さんは子供の頃に自分が野球選手になりたかったそうですが、病気で体を壊してしまい、野球ができない体になってしまいました。
新庄英敏さんは盲腸炎を悪化させて腹膜炎を起こしてしまったために運動が禁止されてしまい、野球選手への夢を諦めざるを得なくなったそうです。
そのために、息子の新庄剛志監督が小学生になったらソフトボールチームへ入れて、野球選手への道を作ったと話しています。
新庄剛志監督は父の新庄英敏さんから「勉強はしなくてもいい」といわれて育ったそうです。「勉強はしなくてもいい」というのは、サボって何もしなくてもいいという意味ではありません。
「勉強はいいからスポーツで飛び抜けなさい」という意味だったそうです。子どもの頃から9回も交通事故に合うほど多動で落ち着きがなかった新庄剛志監督は、勉強には向いていないことを父は見抜いて、その言葉をかけ続けたのかもしれません。
相手のいい部分を伸ばそうとする教育方針は新庄剛志監督にも受け継がれて、現在の日本ハムでの指導にも生かされています。
新庄剛志監督はテレビ番組のインタビューで、高校時代に暴行事件を起こしたことを告白しています。現役時代には表沙汰にならなかったのですが、表沙汰になっていたらおそらくプロ野球選手にはなれなかっただろうという暴行事件です。
その事件はテスト時間中に起こりました。同じクラスの女の子が問題を解き終わったので、テスト用紙の裏に絵をかき始めます。
先生はそれを止めるように言いましたが、女の子はかき続けていたそうです。すると先生がその女の子を殴り始めたため、それに憤った新庄剛志監督が先生に殴りかかったといいます。
すでにプロ野球へ行くことが決定していた時期ですが、校長先生はプロ入りの取り消しを宣言しました。
新庄剛志監督の父親は学校へ呼ばれ、仕事先の広島から急いで駆けつけたそうです。その時、絵をかいて先生に殴られた女の子が父親に向かって経緯を説明しました。
先生を殴った理由を聞いた父親は、「お前は間違っておらん」と「プロに行かなくてもいい」といって帰っていったそうです。
その後、先生を殴った経緯を聞いた教頭先生が校長先生を説得したので、プロ入り取り消しは撤回されました。
しかし、自分の夢でもあったプロ入りよりも、人間としての正しさを優先しようとして父の態度は、その後の新庄剛志監督の人間性に大きく影響していることでしょう。
新庄剛志監督といえば、入団時に7,500円で購入した1つのグローブをプロ入りから引退まで使い続けたことでも有名です。
道具を大切にするという姿勢は、植木職人の父・新庄英敏さんの影響が大きいようです。職人は道具を大切にしますが、新庄剛志監督は丁寧に道具の手入れをする父親の姿をみていたのではないでしょうか。
その父の道具を大切にする姿勢が、新庄剛志監督が1つのグローブを手入れをし続けて使い続けた姿勢につながっているのでしょう。このグローブは、父の新庄英敏さんが亡くなった時、一緒にお棺に納めたそうです。
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