巨人の不動のショートである坂本勇人選手ですが、高校時代の成績と打順はどうだったのでしょうか。また、高校時代はヤンチャで女遊びや鼻ピアスをしていたという話は本当なのでしょうか。この記事では、坂本勇人選手の高校時代に迫ります。
坂本勇人選手は、巨人の不動のショートとして長年活躍し続けています。2020年には球界を代表する打者の証である2,000本安打も達成しました。この記事では、現在大活躍している坂本勇人選手の高校時代に迫っていきます。
坂本勇人選手が卒業した高校は、青森県にある現在の八戸光星学院高校です。坂本勇人選手が在籍していた頃は光星学院高校という名前で、兵庫県出身の坂本勇人選手は野球留学で青森の高校へ進学しました。
八戸光星学院の野球部は青森県の強豪で、1997年から春夏合わせて18回の甲子園出場経験があります。
坂本勇人選手は高校時代、2006年の3年生春のセンバツ高校野球に出場しています。甲子園ではチームは1回戦敗退だったものの、坂本勇人選手は3安打を記録しており、このときは打順4番でショートでした。
坂本勇人選手の高校時代の成績はどのようなものだったのでしょうか。坂本勇人選手の高校時代の野球の成績をみていきましょう。
坂本勇人選手は高校時代、1年生の秋からショートのレギュラーの座をつかんでいました。
小学生の時には投手として、楽天で活躍する田中将大投手が捕手でバッテリーを組んでいます。坂本勇人選手が本格的にショートを守り始めたのは、中学生のときでした。
中学生の時には、センスはいいけれどもプロに行ける力がある選手とまではコーチたちは思っていなかったそうです。しかし、当時、光星学院野球部で指揮を取っていた金沢監督はプロになれる素質を見抜いてスカウトしたといいます。
高校に入ってからは、1年生からショートのレギュラーで、通算39本塁打を記録しています。
高校3年生の秋のドラフト会議では、当時の高校生ドラフトで外れ1位で巨人から指名されました。当時、ショートの守備はそれほど評価されておらず、打撃と走塁が高く評価されていたそうです。
守備はショートでは難しいだろう、三塁か外野が定位置になるだろうと巨人のスカウトたちは考えていたようですが、坂本勇人選手が入団した当時の原辰徳監督が粘り強く高卒で即ショートのレギュラーとして使い続けた結果、球界を代表するショートに育ちました。
坂本勇人選手といえば、高校時代まではとてもヤンチャで手がつけられない問題児だったという噂があります。実際のところはどうだったのか検証してみましょう。
高校1年生の冬休み明けに、兵庫の実家から青森の光星学院へ戻った時に坂本勇人選手は鼻ピアスをしていました。厳しい冬の青森では冬休みが長く、野球部の寮に入っている選手たちも全員実家へ帰ります。
実家で羽を伸ばしすぎた坂本勇人選手は、長い冬休みで地元の仲間達と遊びすぎて、鼻ピアスをしてしまったそうです。
当時、光星学院野球部の監督だった金沢監督は、坂本勇人選手の鼻ピアスを見て、即実家へ強制送還させました。
そして、このままで終わっていいのか、親や高校の野球部の友人から話をさせ、改心させて一流の野球選手へと育てたのです。
坂本勇人選手の出身地の兵庫県のある関西地方には、甲子園常連校で優勝経験もある強豪校がたくさんあります。しかし、坂本勇人選手は出身地を離れて、わざわざ遠くの青森の高校へ進学しました。
その理由は、地元の野球強豪校を受験してもすべて落ちてしまったためです。高校受験失敗の理由は、野球の技術ではなく、素行が悪い問題児だったためと噂されています。
坂本勇人選手の高校時代は女遊びもしていたのではないかという噂もあります。光星学院は共学で、野球部のレギュラーですから高校時代からモテたことは確かでしょう。
しかし、野球部は練習がとてもきつく、また寮生活です。学校の授業と野球部の練習と寮での生活では、女遊びをしたくても難しかったでしょう。
巨人の不動のショートとなってからは、夜の武勇伝エピソードも多い坂本勇人選手。高校時代の反動の可能性もあります。
坂本勇人選手は高校1年生の鼻ピアス事件までは手のつけられないヤンチャでした。しかし、その後改心して野球に集中するようになった結果、球界を代表するショートへと成長しています。今後もどんなプレーを見せてくれるのか、坂本勇人選手の活躍に期待しましょう。