読売巨人軍には球界最多の6つの永久欠番が設定されています。永久欠番にはどのような意味があり、どのような選手が読売巨人軍の永久欠番になっているのでしょうか。この記事では巨人の永久欠番、ミスタージャイアンツや王貞治、沢村賞の沢村栄一などをみていきましょう。
永久欠番とは、野球などの団体スポーツで、チームで特に顕著な功績を残した選手がつけていた背番号を、ほかの選手には使えない特別な番号です。
永久欠番を設定するということは、その番号をつけていた選手の栄誉と栄光をチームの歴史で末永く称えることを意味しています。
読売巨人軍には球界で最多となる6つの永久欠番が設定されています。それぞれの永久欠番を背負っていた選手の功績について、選手が活躍した年代順に詳しくみていきましょう。
沢村栄治は、現在まで続く沢村賞の由来となった投手です。1917年に三重県で生まれて、学生時代は甲子園でも活躍しています。
1934年に開催された日米野球では、日本代表の投手に選ばれて、5試合に登板し、メジャーリーガーから多くの三振を奪いました。
メジャーリーガーにも大投手と認められた、現在の読売巨人軍の前身である大日本東京野球倶楽部の初代エースです。
しかし、1938年に徴兵されます。その後は何度か除隊となりプロ野球選手として復帰しますが、しばらくすると応召され、1944年12月2日に戦死しました。
読売巨人軍で初めてのエースピッチャーであったという功績を認められて、戦後沢村栄治がつけていた背番号14が永久欠番に設定されています。
黒沢俊夫は1914年生まれの大阪府出身の外野手です。現在名古屋金鯱軍が1936年に結成された時に入団し、大洋軍、西鉄軍と渡り歩き、1944年に読売巨人軍へ入団しました。
所属したチームではどこでも主砲として活躍しましたが、1947年のシーズン中に腸チフスを患い、33歳の若さで病死しています。
本当に具合が悪くなる直前まで、責任感の強さから体調が悪いことを隠して出場し続けたことが命取りになってしまいました。
現役選手のままで病死したということで、読売巨人軍は球団葬で見送り、黒沢俊夫の背番号4を永久欠番に設定しています。
川上哲治は現役時代から巨人ジャイアンツの助監督、監督時代を通じて背番号16をつけ続けました。現役通算18年で生涯打率0.313は、活躍していた1940年代から50年代にかけては驚くべき打撃力でした。
強力な打撃力を持つ選手ということで、「打撃の神様」と呼ばれるようになり、背番号16が読売巨人軍の永久欠番となりっています。
金田正一はいまだにメジャーリーグでも破られていない、生涯400勝を上げた大投手です。現役通算20年で400勝を上げて、400勝ちょうどでユニフォームを脱ぎました。
当時は年間20勝は当たり前、30勝する年もありました。現在のように、投球数や回数が管理される様になった時代では、もう破ることが難しい記録でしょう。
ミスタージャイアンツこと長島茂雄の背番号3も読売巨人軍の永久欠番です。
長嶋茂雄は現役通算17年で、打率3割を超える年が11年もありました。また、ちょうど各家庭にテレビが普及しつつあった時代に、華麗なプレーで視聴者をわかせ野球ファンを増やした功績もあります。
野球といえば読売巨人軍、読売巨人軍といえば長嶋茂雄、そのような時代を築き上げた功績と優れた成績が認められての永久欠番でしょう。
現在では、ソフトバンク・ホークスの最高顧問というイメージの強い王貞治ですが、読売巨人軍の背番号1はこの人しかいません。現役時代の22年と引退後の読売巨人軍の助監督と監督時代を合わせると、30年間背負い続けた読売巨人軍の背番号1でした。
王貞治の功績はホームラン数の世界記録を樹立したことです。1977年に通算756本のホームランを打ち当時の世界記録を打ち立てました。また、現役通算868本はいまだ破られていないホームラン記録です。
次に読売巨人軍の永久欠番になりそうな空き番号はどれでしょうか。現在は、松井秀喜がつけていた背番号55が空き番号となっています。
読売巨人軍で選手生命を終えませんでしたが、日本球界に残した功績と、メジャーでの活躍を合わせたら、今後の永久欠番になってもおかしくないでしょう。
読売巨人軍には、6つの永久欠番が設定されていますが、この数は日本球界で最も多いです。永久欠番というのは、そのチームにとってのスーパースターである証ともいえます。
永久欠番数は巨人が最も多いということは、チームの歴史が戦前からと長いだけでなく、それだけスターを輩出してきたチームだということでしょう。