プロ野球にはアクシデントや故障は付きものですが、試合中の全力プレーの結果起きた事故によって「悪役」となってしまった悲劇の選手が栄村忠広さんです。試合中に起きた栄村忠広さんと吉村禎章さんを巻き込んだ事故や、栄村忠広さんの現在の姿について紹介します。
プロ野球に限らず、あらゆるスポーツに付きものなのが選手間の事故と故障です。悪意を持って相手をファウルで倒し怪我をさせる悪質な事故もありますが、ほとんどの事故は全力プレーの結果として起こるやむを得ないものです。
日本プロ野球史には「球界の悲劇」として今でも語り継がれる悲しい事故があります。その結果、一躍「悪役スター」として人々から認知されるようになり、その後の人生を大きく狂わされた悲劇の選手こそ、この記事で取り上げる栄村忠広さんです。
まずは、栄村忠広さんのプロフィールを紹介します。
本名 | 栄村忠広 |
愛称 | ??? |
生年月日 | 1961年9月10日 |
現在年齢 | 61歳 |
出身地 | 鹿児島県枕崎市 |
血液型 | ??? |
身長 | 174cm |
体重 | 70kg |
所属球団 | 東京読売ジャイアンツ(1982年~1989年) 現オリックス・バファローズ(1990年) |
主な成績 | 通算74試合、43打数10安打、打率.233、本塁打0、打点2 |
栄村忠広さんは鹿児島実業高校時代に二塁手として、2年連続甲子園大会出場を経験しています。
高校卒業後の1982年オフに巨人の入団テストを受けて合格し、ドラフト外で巨人に内野手として入団しました。
巨人入団を機にスイッチヒッターに転向し、1987年にはイースタンリーグの盗塁王に輝き、翌1988年に1軍登録されます。
巨人時代の栄村忠広さんは、東京ドームでのプロ野球公式戦初盗塁を記録しましたが、盗塁中に投手からの送球によって頭部を負傷したため、それ以降ヘルメットが義務付けられるようになりました。
しかし、1988年にこの記事で紹介する事故が起こったために、1990年に現オリックス・バファローズへ無償トレードされま、その後1年で自由契約選手となり現役を引退しています。
栄村忠広さんの人生の転機となったのは、1988年に北海道札幌市の円山球場で行われた東京読売ジャイアンツと名古屋中日ドラゴンズが対戦した試合での事故です。
栄村忠広さんの人生を大きく狂わせることになった、札幌円山球場で起こった「球界の悲劇」について紹介します。
栄村忠広さんは守備固めのため、この試合の8回表からセンターの守備に入りました。打席に入ったのは中日の名捕手中尾孝義さんで、レフト方向に打球を飛ばします。
打球はレフトの守備についていた吉村禎章さんの守備範囲であったため、吉村禎章さんは補給体制に入りますが、栄村忠広さんはそのことに気づかず、打球に向かって走り続けてしまい吉村禎章さんと衝突してしまいます。
栄村忠広さんは無傷でしたが、吉村禎章さんはそのまま担架に乗せられて北海道大学付属病院に搬送され、左膝靭帯断裂の重傷を負いました。
事故から4日後、巨人は吉村禎章さんをアメリカに搬送し、スポーツ医学の権威フランク・ジョーブ博士の手によって、3本のじん帯を再建するための5時間に及ぶ緊急手術が行われました。
吉村禎章の手術は無事成功し、厳しいリハビリによって試合復帰できるまでに回復しましたが、全盛期のパフォーマンスを取り戻すことはできませんでした。
吉村禎章さんが補給体制に入っていることを確認しなかった栄村忠広さんには非がありますが、全力プレーの結果起こったことなので、やむ得ない事故ともいえるでしょう。
しかし、当時巨人のスター選手であった吉村禎章さんに怪我をさせてしまい、選手生命を奪いかけた栄村忠広さんへのバッシングは凄まじかったそうです。
不慮の事故によってバッシングの矢面に立たされ、結果的に栄村忠広さんは引退に追い込まれるかたちとなりました。
引退後は人目を気にして生活するようになり、満員電車には決して乗らないほどの人間恐怖症になっていたようで、長い間、栄村忠広さんの現在の姿は分からないままでした。次は、謎に包まれた栄村忠広さんの現在について紹介します。
栄村忠広さんは引退後、一般企業の営業職につきましたが、「吉村を栄村ですと言えば分かる」と心ない言葉をかけられ辛い思いをされたそうです。
退職後はアルバイトをしながら生活費を稼ぐ毎日を送り、子供がいじめられないかといつも心配していたと後に語っています。栄村忠広さんは、現在も一般人として生活しています。
マスコミからの取材を頑なに拒み続けた栄村忠広さんですが、2014年9月に放送された「石橋貴明のスポーツ伝説 光と影」に出演され、吉村禎章さんに怪我をさせてしまったことを謝罪する手紙を送った事実を明らかにしました。
吉村禎章さんは一流の野球選手であるだけでなく人格者でもあり、事故のことで栄村忠広さんを恨むことなど一度もありませんでしたが、謝罪の手紙を送ったことで栄村忠広さんの心の重荷が軽くなったのは間違いないでしょう。
苦労の多い人生を歩まれた栄村忠広さんですが、ネットでは栄村忠広さんは審判になって野球界に戻ってきたという噂も流れています。ここでは、噂の真偽について紹介します。
パリーグの名物アンパイヤー(審判)に栄村という名前の方がいます。野球ファンですら栄村忠広さんと間違える人も多いですが、審判として活躍されていたのは栄村隆康さんで、栄村忠広さんとは別人です。
また、栄村隆康さんの出身は神奈川県で鹿児島県ではないので、このことからも別人であることが分かります。
巨人時代に吉村禎章さんと衝突し怪我を負わせバッシングの嵐にさらされた栄村忠広さんは、現在一般人として生活しています。
全力プレーの結果、その後の人生が大きくに狂ってしまったことは残念の限りですが、栄村忠広さんの悲劇が現在のプロ野球界の向上に寄与していたのも事実でしょう。