古田敦也のすごさとは?現役時代の成績・野村克也との仲やメガネでドラフト拒否された過去も

平成No.1の捕手は古田敦也氏だといわれていますが、そのすごさとはどのような点にあったのでしょうか。この記事では、古田敦也氏の捕手としてのすごさや故野村克也氏との仲、メガネが理由でドラフト拒否されたのは本当なのかをみていきましょう。

古田敦也のすごさとは?現役時代の成績・野村克也との仲やメガネでドラフト拒否された過去ものイメージ

目次

  1. 1すごさがわかる!元ヤクルト・古田敦也とはどんな選手だったのか?
  2. 古田敦也のプロフィール
  3. 古田敦也の成績について
  4. 古田敦也の年俸推移
  5. 2仲が良かったの?悪かったの?古田敦也と野村克也の関係とは?
  6. 野村克也は古田敦也のドラフト獲得に懐疑的だった
  7. 野村克也は古田敦也にパワハラをしていた?
  8. 古田敦也と野村克也の対談とは?
  9. 3古田敦也の現役時代のすごさがわかるエピソード
  10. 名門大学に一般入試で入学
  11. プロ1年目にゴールデングラブ賞
  12. セ・リーグ初の捕手で首位打者
  13. オールスター史上初のサイクルヒット
  14. 盗塁阻止率の日本記録
  15. イチローを封じての日本一
  16. 1試合4打席連続ホームラン
  17. 球界再編問題に選手会長として奔走
  18. 39歳での打率3割達成
  19. 大卒社会人出身選手として史上初の2000本安打
  20. 選手兼任監督を任されて「代打オレ」
  21. 4古田敦也は筋肉もすごい?
  22. 5古田敦也のすごさをもう一度かみしめてみよう!

すごさがわかる!元ヤクルト・古田敦也とはどんな選手だったのか?

日本のプロ野球界で最強の捕手は誰かという話になると、必ず名前が挙がるが古田敦也氏と故野村克也氏です。この2人は、ヤクルトスワローズでは選手と監督という師弟関係にありました。

現役として活躍していた時代が違うので、古田敦也氏と野村克也氏のどちらがすごいのかは比較できません。しかし、平成最強の捕手の1人が古田敦也氏であることは間違いないでしょう。

この記事では、現在は野球解説者などとして活躍している古田敦也氏のすごさとはどのような点にあったのか、詳しくみていきます。

古田敦也のプロフィール

古田敦也氏のプロフィールです。
 

生年月日 1965年8月6日
出身地 兵庫県川西市
身長・体重 182cm・80kg
投打 右投右打
ポジション 捕手
経歴 小学3年制のときに地元の少年野球チーム加茂ブレーブスへ入団
中学生の時から注目されたが強豪私立高校からの誘いを断る
兵庫県立川西明峰高校へ進学
一般入試で関西大学と立命館大学に合格
立命館大学に進学
1988年トヨタ自動車に就職し人事部に勤務しながら硬式野球部で活躍
1988年ソウルオリンピックで銀メダル
1989年秋のドラフト会議でヤクルトから2位指名
1990年東京ヤクルトスワローズ入団
2005年ヤクルトで選手兼任監督就任
2007年シーズンをもって現役引退及び監督退任
引退後は野球解説者等として活躍中

大学4年制のときにはメガネが理由でドラフトを拒否された!

古田敦也氏は大学へは野球推薦ではなく一般入試で入学しましたが、硬式野球部で活躍しました。大学4年間でベストナインに4回も選ばれるなど、プロからも注目される選手に成長します。

実際に、4年生のドラフト前には日本ハムから上位指名するという連絡が入っていたようですが、ドラフト会議で名前が呼ばれることはありませんでした。

その理由について、大学生の時にドラフトを拒否されたのはメガネをかけていたためだと、後に日本ハム関係者が語っています

視力が弱いうえに乱視であり、暗くなると視力が低下する鳥目だという噂も立ったために、大学4年でドラフト指名されなかったようです。

メガネだからプロに行けないと思っていた古田敦也氏に対して、ヤクルトのスカウトは「君が一番最初のメガネの捕手になればいい」と誘ったといいます。結果としてメガネでも最強捕手になれたのですから、メガネは関係なかったようです。

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オリンピックのメダル獲得に貢献!

プロ野球へ行きたいと真剣に考えていた古田敦也氏でしたが、ドラフトで指名されなければ行くことはできません。

そのため、トヨタ自動車を一般職枠で受けて合格し、トヨタ自動車の人事部で働くことになりました。

入社後は硬式野球部にも所属して都市対抗野球でも活躍し、1988年のソウルオリンピックで公開競技として実施されることになっていた野球の日本代表にも選ばれています。

オリンピックでは決勝でアメリカに敗れましたが、古田敦也氏は日本の銀メダル獲得に貢献しました

古田敦也の成績について

古田敦也氏のすごさはどのくらいのものだったのか、具体的な成績でみていきましょう。

捕手としての成績

古田敦也氏の捕手としてのプロ通算での守備成績は次のとおりです。
 

試合数 企図数 許盗数 盗塁刺 阻止率 捕逸
1959 926 498 428 0.462 104

プロ通算18年で古田敦也氏は2000試合近くも捕手としてマスクを被っています。捕手としての古田敦也氏のすごさを語る上で注目するべき数字は、盗塁の阻止率と捕逸です。

0.462という盗塁阻止率は現在日本記録となっています。古田敦也氏がマスクを被っていたら盗塁の成功率は半分程度しかないということです。

捕逸とは、投手が取れるはずのところに投げたボールを捕手が取れないことですが、古田敦也氏は驚くほど捕逸が少ないのです。

全盛期にはレギュラーとして年間130試合以上出場していても、10回程度しか捕逸していません。この驚くべき捕球技術は、現在のプロの捕手でもなかなかいません。

打撃成績

古田敦也氏のすごさは、打てる捕手であった点です。古田敦也氏のプロ通算18年での打撃成績もみておきましょう。
 

打数 安打 本塁打 打率
8115 2097 217 0.294

古田敦也氏は、18年間の現役生活の中で打率3割超えを9シーズン達成しています。守備の負担が投手の次に大きい捕手でありながらこの打撃成績は古田敦也氏のすごさを物語るものでしょう。

古田敦也の年俸推移

成績面でもすごさがわかる古田敦也氏ですが現役時代の年俸はどのくらいだったのでしょうか。古田敦也氏の年俸推移をみていきましょう。
 

年俸
契約金 4,300万円
1990年 700万円
1991年 1,920万円
1992年 6,000万円
1993年 1億2,000万円
1994年 1億8,000万円
1995年 1億6,800万円
1996年 1億8,000万円
1997年 2億円
1998年 2億円
1999年 2億円
2000年 2億円
2001年 2億円
2002年 2億円
2003年 2億円
2004年 3億円
2005年 3億円
2006年 3億4,000万円
2007年 1億6,000万円+功労金5,000万円

入団4年目に1億円を超えてから引退するまでずっと億の単位の年俸でした。ここからも古田敦也氏のすごさがわかるでしょう。

仲が良かったの?悪かったの?古田敦也と野村克也の関係とは?

古田敦也氏をプロ野球選手として育てたのは、入団時にヤクルト監督だった故野村克也氏だといわれています。

しかし、同じ捕手であった野村克也氏と古田敦也氏は仲が悪かったという噂もあります。一体2人の仲はどうだったのか検証してみましょう。

野村克也は古田敦也のドラフト獲得に懐疑的だった

古田敦也氏がドラフト指名された1989年の秋に野村克也氏がヤクルトの監督に就任しました。監督になった野村克也氏は2つの理由から、古田敦也氏のドラフトでの獲得に懐疑的だったそうです。

1つは、古田敦也氏がメガネをかけている点です。メガネをかけている視力の弱い捕手はプロ野球では成功しないと当時はいわれていました

捕手出身の野村克也氏も、それまでメガネをかけた捕手がいなかったことから、メガネが必要な古田敦也氏がプロで通用するとは思っていなかったようです。

2つ目は、大卒からの社会人だった点です。大学を経ての社会人で年齢がある程度いっていたために、すでに捕手として完成されていた古田敦也氏には伸びしろがないと考えたようです

野村克也氏は高卒捕手を自分で育てたほうがいいと考えていたために、古田敦也氏の能力には疑問を持っていたといわれています。

野村克也は古田敦也にパワハラをしていた?

しかし、ヤクルトが球団として古田敦也氏の獲得を決めていたために、野村克也氏の意向を無視する形でドラフト指名されました。

ヤクルトに入団した古田敦也氏は、野村克也氏が1990年シーズンの正捕手と決めた選手のリードが下手だったために、4月中にはスタメンで起用されます。

スタメンで起用されると、捕手としての実力が高く評価されてその年の6月には正捕手として認められるようになりました。

しかし、試合には出続けられても、野村克也氏は古田敦也氏に厳しく当たり、試合中にはよくベンチで怒られていたといいます。野村克也氏は今でいうパワハラ上司そのものだったようです。

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古田敦也の野村克也からのパワハラ回避法

現在だったら問題になるかもしれないパワハラ上司のような野村克也氏でしたが、古田敦也氏はあえてベンチでもそばに座るようにしていたそうです。そのかわり、古田敦也氏は野村克也氏のパワハラを回避する方法を身に着けていきました。

古田敦也氏のパワハラ回避法は次の3つの方法です。
 

  • 逆らわない
  • 自分でコントロール出来ないことは考えない
  • ルーティーンを作らない


何をいわれても「そうですね」といって逆らわずに受け流す、そして何をやっても怒られるのだからくよくよ考えないようにしたといいます。

また、「必ずこれをする」というルーティーンを作らずに、どのような状況でも対処できるように鈍感になることに徹したとのことです。

古田敦也と野村克也の対談とは?

試合中のベンチでの様子を見ていると仲が悪かったように見えた古田敦也氏と野村克也氏でしたが、引退後には笑顔で対談しています。幻の対談ともいわれるその映像をみてみましょう。

古田敦也の現役時代のすごさがわかるエピソード

実際に古田敦也氏がどのくらいすごかったのか、すごさのわかる現役中のエピソードを見ていきましょう。

名門大学に一般入試で入学

プロ野球選手の中でも頭脳派として知られていた古田敦也氏は、大学へ野球推薦ではなく一般入試で合格しています

しかも、合格したのは関西のMARCHともいうべき名門私立大学である立命館大学と関西大学です。現役でどちらも合格しているのは、やはり知性派の証といってもいいでしょう。

プロ1年目にゴールデングラブ賞

古田敦也氏はゴールデングラブ賞を10回受賞しています。最初に受賞したのは、プロ1年目のことでした

野村克也氏は大卒捕手は完成されていて癖があるからダメだといっていましたが、古田敦也氏の完成度は野村克也氏の想像を超えてすごいものがあったようです。

セ・リーグ初の捕手で首位打者

古田敦也氏は1991年に首位打者を獲得しています。捕手で首位打者を獲得したのは、セ・リーグでは古田敦也氏がはじめてのことでした

なお、パ・リーグで初の捕手で首位打者は、当時のヤクルト監督である野村克也氏が南海に所属していた1965年に獲得しています。

2022年現在まで、捕手で首位打者はその他に、2012年の巨人の阿部慎之助氏、2019年の西武の森友哉選手のみです。たった4人しかいない捕手で首位打者が、当時ヤクルトで師弟だったのはとても興味深いことです。

オールスター史上初のサイクルヒット

古田敦也氏は1992年に出場したオールスターでサイクルヒットを達成しています。オールスターでサイクルヒットを達成したのは古田敦也氏がはじめてのことでした。

盗塁阻止率の日本記録

古田敦也氏が1993年に達成した盗塁阻止率0.644は現在まで破られていない日本記録となっています。また、現在までの日本記録3位も2000年の古田敦也氏の0.630です

野球の技術は以前よりも向上しているともいわれていますが、現在まで20年以上も破られていない記録を打ち立てた古田敦也氏の守備力にはすごいものがあります。

イチローを封じての日本一

1995年にヤクルトが日本一を達成したときの日本シリーズの相手はイチローを要するオリックス・ブルーウェーブでした

後に、メジャーリーグで年間ヒット数世界一を達成し、10年連続200本安打を達成したイチローを封じてのヤクルトの日本一は、現在でも語り草となっています。

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1試合4打席連続ホームラン

古田敦也氏は2003年の広島戦で1試合4打席連続ホームランを叩き出しました。当時、狭いといわれていた広島市民球場でしたが、それでもすべての打席でホームランを出せるのは、打者としてのすごさを物語っています。

球界再編問題に選手会長として奔走

プロ野球界では、2004年に近鉄バファローズがオリックスと合併して球団数を減らすという、プロ野球再編問題が勃発しました。

この当時、選手会は球団合併反対と新規球団の参入許可を日本野球機構に求めて、法廷闘争まで行っています。このときに選手会長だった古田敦也氏は、交渉などに奔走して、結果として選手のストライキを先導するまでに至りました。

結果として、球団合併は阻止できなかったものの、楽天の新規参入によって12球団という球団数は維持されることとなり、選手会長としての古田敦也氏のリーダーシップが大いに称賛されました

39歳での打率3割達成

古田敦也氏は39歳だった2004年に打率0.306をマークしました。39歳での打率3割達成は当時史上3人目の快挙で、この年令まで打撃力が衰えていないことを証明しました。

大卒社会人出身選手として史上初の2000本安打

古田敦也氏は2005年に2000本安打を達成しました。大卒の社会人を経てプロ入りした選手の2000本安打は史上初の快挙でした。

選手兼任監督を任されて「代打オレ」

古田敦也氏は2005年から2006年にヤクルトの選手兼任監督でした。監督として代打を送るときに、自分を指名する「代打オレ」は、古田敦也氏ならではの言葉として話題になりました。

古田敦也は筋肉もすごい?

古田敦也氏は筋肉もすごいといわれています。

上記の画像では、足の筋肉がすごいことがわかります。また、温泉に入るテレビ番組では胸板の筋肉を見せつけることもありました。引退してかなりの年数がたちますが、古田敦也氏の筋肉は今もすごいものがあります。

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古田敦也のすごさをもう一度かみしめてみよう!

古田敦也氏はメガネというハンディがありながら、現在まで語り継がれる最強捕手として伝説となっています。今一度、古田敦也氏のすごさを噛み締めてみましょう。

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Original
この記事のライター
元吉 馨
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