新庄剛志の高校時代の伝説がすごい!出身校は西日本短期大学附属野球部
日本ハムの新庄剛志監督は、現役時代だけでなく高校生の時もさまざまな伝説的なエピソードがあります。この記事では、新庄剛志監督の出身中学校や高校がどのようなところだったのか、高校時代の野球部での伝説的なエピソードはどのようなものがあるのかみていきましょう。
目次
新庄剛志の経歴について
2006年に現役の野球選手を引退してからタレントなどで活躍していた新庄剛志監督は、2020年に突然トライアウトに挑戦して、その後2022年から日本ハムの監督に就任しました。
野球ファンでなくても、現役引退から14年後のプロ再挑戦と突然の監督就任に驚きましたが、選手時代にさまざまな伝説を作ってきた新庄剛志監督なら納得できるという声もあります。
そのような新庄剛志監督は、高校時代から今に語り継がれるような伝説的なエピソードがありました。この記事では、新庄剛志監督の出身中学校や出身高校での様子や成績、高校での伝説的なエピソードについてみていきましょう。
プロフィール
まずは新庄剛志監督のプロフィールからみていきましょう。
生年月日 | 1972年1月28日 |
出身地 | 福岡県福岡市南区 |
身長・体重 | 181cm・76kg |
投打 | 右投右打 |
ポジション | 外野手・内野手 |
生涯成績・タイトル | NPB通算13年 5163打数1309安打205本塁打 打率0.254 ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞10回など MLB通算3年 876打数215安打20本塁打 打率0.245 |
経歴 | 小学3年でソフトボールを始める 小学6年のときにソフトボールの監督と軟式野球チーム「長丘ファイターズ」を結成 中学校の軟式野球部を経て西日本短大付属高校へ一般入試で入学 1989年秋のドラフト会議で阪神から5位指名 1990年阪神入団 2000年12月ニューヨーク・メッツへのFA移籍を表明 2001年から2003年までメジャーのメッツとジャイアンツで活躍 2004年日本ハムへ移籍 2006年シーズンをもって現役引退 現役引退後はタレントなどで活躍 2021年10月に日本ハム監督就任発表 |
出身中学校は長丘中学校
新庄剛志監督の出身中学校は、福岡市立長丘中学校です。中学校では学校の軟式野球部に所属していました。小学生の時からソフトボールと軟式野球を続けていた新庄剛志監督は、中学校のときには走力も肩も並外れた実力を持っていたそうです。
しかし、中学校の野球部監督は新庄剛志監督に試練を与えるためといって2年生のときにベンチ入りメンバーから外しています。このときには、家に帰ってから自室にこもって泣いたそうです。しかし、後にこの時の監督を恩人と振り返っています。
出身高校は西日本短期大学附属高校
新庄剛志監督は西日本短期大学付属高校へ一般入試で進学しました。西日本付属短期大学付属高校は父親が勧めたそうです。この高校はスポーツ強豪校として知られていて、野球部は甲子園に、バレーボール部は春高バレーなどへの出場が何度もあります。
野球部からはプロ野球選手も輩出していて、新庄剛志監督のほかにもこれまで10人近いプロ野球選手が誕生しています。
しかし、高校時代の新庄剛志監督は高校3年生の時に夏の甲子園に向けた県大会で決勝まで進んだものの、甲子園出場はかないませんでした。しかし、この決勝戦で生まれて初めてのサイクルヒットを達成して、プロのスカウトの目を引いたようです。
新庄剛志の高校時代の伝説的エピソード
新庄剛志監督は阪神在籍時に野村克也監督から「あいつは宇宙人だ」といわれるほどでした。
宇宙人的な個性から、現役時代から数々の伝説的なエピソードを作ってきましたが、高校時代にも野球部にさまざまな伝説を残してきたようです。では、新庄剛志監督が高校野球部で残した伝説的なエピソードをみていきましょう。
センターのバックスクリーンを破壊した遠投力
新庄剛志監督が高校に入学して野球部の練習が始まった頃の伝説です。高校に入ったら1年生はホームベースからまずは両翼90mを投げられるようになるために遠投の練習をします。
しかし、新庄剛志監督は軽々と90m先のネットを超える球を投げました。そこで、120mのセンター方向に投げたところ、フェンスを超えてバックスクリーンを直撃して破壊したそうです。
その時に、新庄剛志監督が投げたボールの衝撃でできた穴は、現在も西日本短大付属高校野球部のグラウンドのバックスクリーンに残っています。
底なしのスタミナ
新庄剛志監督は高校時代から足の速さにも定評がありましたが、スタミナもとんでもなくすごかったそうです。
当時の西日本短大付属高校野球部では、練習の終わりにポール間走100本をやっていました。周りが疲れ切って目標タイムが出せない時も、新庄剛志監督だけは平気な顔をして余裕で時間内に走りきっていたとのことです。
寮の部屋がきれい
新庄剛志監督の高校時代の伝説は野球のことだけでなく、日常生活にもあります。西日本短期大学付属高校野球部の当時の練習は、授業が終わる午後4時頃から夜中の12時頃まで全体練習がありました。
その後で夕食を食べて洗濯などをして、午前2時、3時まで個人練習をするのが普通でした。高校生として学校の授業にも出なくてはいけない野球部の部員にとって、とてもきつい生活なのはいうまでもありません。
そのようななか、新庄剛志監督の寮の部屋はいつも整理整頓されていたそうです。同じ野球部の寮に入っている部員は、新庄剛志監督はいつ部屋を掃除しているのか不思議に思うほどだったといいます。
細かい気配り
新庄剛志監督が多くのファンを引き付ける理由の一つが、やりたい放題やっているようにみえても、実は細やかな気配りを周囲の人にしているためです。
多くの人を引き付ける気配りは高校生の時からみられたといいます。練習中や練習後に人の悪口をいうことはなく、相手がやる気を出すような声掛けを高校生の時からやっていたそうです。
練習中も、「ナイスプレー!」「いいね」「こうしたらどうだろう」などいった声掛けしていたと周囲の人は話しています。
後輩に優しい
新庄剛志監督が高校生だった当時は「パワハラ」といった言葉もなく、上級生から下級生への鉄拳制裁や厳しい指導は日常茶飯事でした。
全寮制の西日本短大付属高校の野球部でも体罰などは日常的にありましたが、しかし、新庄剛志監督は、自分が下級生の時に受けたでだろう、後輩を殴ったり厳しく指導したりすることは一切なかったようです。
高校生の時から「自分がされて嫌だったことは人にはしない」という信念を持った人だったとのことです。
自分の発言には責任を持つ
新庄剛志監督は、周囲にどのような影響をおよぼすのかを考えながら自分の言葉を選んでいるところがあります。自分のことばに責任を持つ態度は、高校生の時からみられたようです。
「プロになれたらいいな」というのではなく、「自分はプロになる」と断言して、それを絶対に叶えてしまうのが高校生の時からの新庄剛志監督でした。
プロ入り後に母校へ500万円の差し入れ
新庄剛志監督といえば、西日本短大付属高校のある八女市近辺では「新庄バス」が有名です。西日本短大付属高校に新庄剛志監督が2005年に寄贈したマイクロバスで、地元では新庄バスと呼ばれています。
野球部と言えば遠征が多いので、自前のバスがあるととても便利でしょう。当時、日本ハムの現役選手だった新庄剛志監督は、自分のポケットマネーからバスの購入費用500万円を出して寄贈したそうです。
バスの側面にはバットを構える新庄剛志監督のシルエットと、新庄剛志監督のサインが描かれています。
新庄剛志ビッグボスが母校の西日本短期大学附属に送ったバスがあった
— がんのすさん (@taka066hawks) May 22, 2022
新庄バスって地元で呼ばれてるやつ pic.twitter.com/jjcb2Ujf8S
新庄剛志の若い頃がかっこいい!
新庄剛志監督の若い頃はとてもイケメンでかっこいいと人気でした。高校時代からプロ野球の現役時代までの新庄剛志監督の若い頃をみていきましょう。まずは高校生の時の新庄剛志監督です。
上の動画は、高校生の時に試合に出場する様子とドラフト会議後の入団会見の様子です。高校の制服にリーゼントで整えたヘアスタイルで会見に臨む新庄剛志監督には、確かにその後にイケメンに成長していきそうな片鱗が覗いています。
阪神に入団直後の新庄剛志監督です。まだあどけなさが残っています。
阪神で1軍に定着して、人気選手となった頃の新庄剛志監督です。もう完成されたイケメンぶりでかっこいいです。
メジャーから帰ってきて日本ハムで活躍していた頃の新庄剛志監督です。メジャー流のファンサービスを日本ハムに定着させて、球団の人気を絶頂に押し上げた頃です。
新庄剛志は高校時代から伝説を作っていた!
新庄剛志監督の派手なパフォーマンスや言動の裏には細かな気配りがありますが、それは高校生の時にはすでにみられたものでした。
優れた野球の才能と気遣いなどの伝説は高校生の時からエピソードとして語り継がれています。今後もどのような伝説を残してくれるのか、新庄剛監督の今後の活躍に期待しましょう。