巨人には黒歴史として語られる「空白の一日」という事件があります。1978年11月21日に起きたもので、江川事件とも呼ばれる空白の一日とはどのような事件だったのでしょうか。この記事では、空白の一日の2人の主要人物と、事件の流れについて詳しく解説します。
プロ野球の読売巨人には多くのファンを一度に失った黒歴史とも言える「空白の一日」と呼ばれる事件があります。
1978年11月21日に起きた、空白の一日とはなぜ起きたのでしょうか。まずは、空白の一日の主要な2人の登場人物のプロフィールからみていきましょう。
江川卓は、空白の一日の主人公ともいえる人物です。江川卓のプロフィールをみていきましょう。
1955年5月25日生まれ
福島県いわき市出身
静岡県の佐久間中学校で野球部に入り本格的に野球を始める
作新学院でエースとして活躍
慶應大学を受験したが不合格で法政大学へ進学
1977年のドラフト会議でクラウンライターライオンズが1位指名
ドラフト指名を断り翌年アメリカへ野球留学
1978年空白の一日を経て巨人入り
1988年3月現役引退
引退後は野球解説者などとして活躍
もう一人、小林繁も空白の一日の悲劇の主人公として語られています。小林繁のプロフィールは次のとおりです。
1952年11月14日誕生
鳥取県出身
小学校でソフトボール、中学校で野球部に所属
由良育英高校へ進学
関西大学野球部へ進学する予定だったが大学紛争の影響で入学できず
高校卒業後大丸デパートへ入社
社会人野球チーム全大丸でプレー
1971年のドラフト会議で巨人から6位指名
翌年秋に入団を決めて1973年春に入団
1979年1月31日に空白の一日により阪神へトレード
1983年引退
引退後は野球解説者、プロ野球コーチなどを務める
2010年1月17日心筋梗塞により急逝 享年57歳
空白の一日、江川事件とはどのようなものだったのでしょうか。その流れをわかりやすく解説します。
空白の一日は、前年の1977年のドラフト会議から始まります。法政大学のエース投手として注目されていた江川卓は、子供の頃からファンだった巨人、もしくはホームが東京であるヤクルトか大洋以外の指名は拒否する意向を示していました。
他球団はその意志を尊重するという意向を示していましたが、ドラフト会議当日になると、江川卓の指名権を獲得したのは、福岡がホームのクラウンライターライオンズでした。
恋人がいる東京から離れたくないということで、江川卓はこの指名を拒否して、大学卒業後は出身高校の作新学院職員という身分で、アメリカへ野球留学しています。
巨人と作新学院の理事長で衆議院議員であった船田中は、当時、ドラフトの空白の一日となっていたドラフト前日に目をつけて作戦を練ります。
当時のドラフト制度では、指名を受けた選手と球団が独占的に交渉できる期間は、翌年のドラフト会議の前々日まででした。ドラフト会議前日は、選手の意向を確認する必要性があるなどとして、他球団の接触が許されていました。
巨人の首脳部と船田はドラフト前日であれば、前年のドラフトの指名権はすでに効力がないという理屈を組み上げたのです。その結果、1978年のドラフト会議の前日である11月21日に突然、巨人と江川卓の契約が発表されました。
空白の一日を利用した強行に、他球団は大きく反発しました。巨人のルール違反をなじる声が大きく、その年のドラフト会議を巨人はボイコットしています。
11球団によって開催されたドラフト会議では、巨人の強権的なやり方は許せないということで、南海、阪神、ロッテ、近鉄が江川卓を1位指名しました。抽選の結果、阪神が江川卓の1位指名を獲得しています。
その後、阪神は江川卓と交渉しようと何度も訪問しましたが、後見人の船田議員の事務所に行っても、福島の実家に行っても会うことはできませんでした。
最終的に、プロ野球のコミッショナーによる裁定で決着します。コミッショナーからは、巨人と江川卓との入団契約は認めない、江川卓は阪神と契約後に巨人へトレード移籍する、という形での決着を提案され、両球団とも、このコミッショナーの裁定を受け入れました。
巨人は金銭トレードもしくは若手数人とのトレードを提案しましたが、ドラフト1位を手放すということで阪神側がエース級とのトレードを要求します。結果として、1977年シーズンに18勝を挙げた小林繁とトレードが成立しました。
空白の一日とはいったい何だったのしょうか。当時、ドラフト会議の前日に空白の一日を設けていたのは、各球団が指名する選手を調整しやすいようにするための配慮でした。いわば紳士協定だったといえるでしょう。
巨人が行ったことは紳士協定破りです。結果として巨人は世間からの大きな反発を受け、大量のファンの他球団への離脱を招いてしまいました。
現在では、この空白の一日をきっかけとして、ドラフトで指名された選手が契約できる期限がもっと短く定められています。現在では起こり得ない事件となりました。
空白の一日は、巨人の紳士協定破りによって、小林繁が悲劇的なトレードを受け入れざるを得なかった事件として語られています。現在のドラフト会議のシステムでは、同じような事件は起こりえません。
しかし、紳士協定破りのようなことはファンの離反を招くことを表した事件でありました。今後も、このような事件を起こしてはいけません。