平成No.1の捕手は古田敦也氏だといわれていますが、そのすごさとはどのような点にあったのでしょうか。この記事では、古田敦也氏の捕手としてのすごさや故野村克也氏との仲、メガネが理由でドラフト拒否されたのは本当なのかをみていきましょう。
日本のプロ野球界で最強の捕手は誰かという話になると、必ず名前が挙がるが古田敦也氏と故野村克也氏です。この2人は、ヤクルトスワローズでは選手と監督という師弟関係にありました。
現役として活躍していた時代が違うので、古田敦也氏と野村克也氏のどちらがすごいのかは比較できません。しかし、平成最強の捕手の1人が古田敦也氏であることは間違いないでしょう。
この記事では、現在は野球解説者などとして活躍している古田敦也氏のすごさとはどのような点にあったのか、詳しくみていきます。
古田敦也氏のプロフィールです。
生年月日 | 1965年8月6日 |
出身地 | 兵庫県川西市 |
身長・体重 | 182cm・80kg |
投打 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
経歴 | 小学3年制のときに地元の少年野球チーム加茂ブレーブスへ入団 中学生の時から注目されたが強豪私立高校からの誘いを断る 兵庫県立川西明峰高校へ進学 一般入試で関西大学と立命館大学に合格 立命館大学に進学 1988年トヨタ自動車に就職し人事部に勤務しながら硬式野球部で活躍 1988年ソウルオリンピックで銀メダル 1989年秋のドラフト会議でヤクルトから2位指名 1990年東京ヤクルトスワローズ入団 2005年ヤクルトで選手兼任監督就任 2007年シーズンをもって現役引退及び監督退任 引退後は野球解説者等として活躍中 |
古田敦也氏は大学へは野球推薦ではなく一般入試で入学しましたが、硬式野球部で活躍しました。大学4年間でベストナインに4回も選ばれるなど、プロからも注目される選手に成長します。
実際に、4年生のドラフト前には日本ハムから上位指名するという連絡が入っていたようですが、ドラフト会議で名前が呼ばれることはありませんでした。
その理由について、大学生の時にドラフトを拒否されたのはメガネをかけていたためだと、後に日本ハム関係者が語っています。
視力が弱いうえに乱視であり、暗くなると視力が低下する鳥目だという噂も立ったために、大学4年でドラフト指名されなかったようです。
メガネだからプロに行けないと思っていた古田敦也氏に対して、ヤクルトのスカウトは「君が一番最初のメガネの捕手になればいい」と誘ったといいます。結果としてメガネでも最強捕手になれたのですから、メガネは関係なかったようです。
プロ野球へ行きたいと真剣に考えていた古田敦也氏でしたが、ドラフトで指名されなければ行くことはできません。
そのため、トヨタ自動車を一般職枠で受けて合格し、トヨタ自動車の人事部で働くことになりました。
入社後は硬式野球部にも所属して都市対抗野球でも活躍し、1988年のソウルオリンピックで公開競技として実施されることになっていた野球の日本代表にも選ばれています。
オリンピックでは決勝でアメリカに敗れましたが、古田敦也氏は日本の銀メダル獲得に貢献しました。
古田敦也氏のすごさはどのくらいのものだったのか、具体的な成績でみていきましょう。
古田敦也氏の捕手としてのプロ通算での守備成績は次のとおりです。
試合数 | 企図数 | 許盗数 | 盗塁刺 | 阻止率 | 捕逸 |
1959 | 926 | 498 | 428 | 0.462 | 104 |
プロ通算18年で古田敦也氏は2000試合近くも捕手としてマスクを被っています。捕手としての古田敦也氏のすごさを語る上で注目するべき数字は、盗塁の阻止率と捕逸です。
0.462という盗塁阻止率は現在日本記録となっています。古田敦也氏がマスクを被っていたら盗塁の成功率は半分程度しかないということです。
捕逸とは、投手が取れるはずのところに投げたボールを捕手が取れないことですが、古田敦也氏は驚くほど捕逸が少ないのです。
全盛期にはレギュラーとして年間130試合以上出場していても、10回程度しか捕逸していません。この驚くべき捕球技術は、現在のプロの捕手でもなかなかいません。
古田敦也氏のすごさは、打てる捕手であった点です。古田敦也氏のプロ通算18年での打撃成績もみておきましょう。
打数 | 安打 | 本塁打 | 打率 |
8115 | 2097 | 217 | 0.294 |
成績面でもすごさがわかる古田敦也氏ですが現役時代の年俸はどのくらいだったのでしょうか。古田敦也氏の年俸推移をみていきましょう。
年 | 年俸 |
契約金 | 4,300万円 |
1990年 | 700万円 |
1991年 | 1,920万円 |
1992年 | 6,000万円 |
1993年 | 1億2,000万円 |
1994年 | 1億8,000万円 |
1995年 | 1億6,800万円 |
1996年 | 1億8,000万円 |
1997年 | 2億円 |
1998年 | 2億円 |
1999年 | 2億円 |
2000年 | 2億円 |
2001年 | 2億円 |
2002年 | 2億円 |
2003年 | 2億円 |
2004年 | 3億円 |
2005年 | 3億円 |
2006年 | 3億4,000万円 |
2007年 | 1億6,000万円+功労金5,000万円 |
入団4年目に1億円を超えてから引退するまでずっと億の単位の年俸でした。ここからも古田敦也氏のすごさがわかるでしょう。
古田敦也氏をプロ野球選手として育てたのは、入団時にヤクルト監督だった故野村克也氏だといわれています。
しかし、同じ捕手であった野村克也氏と古田敦也氏は仲が悪かったという噂もあります。一体2人の仲はどうだったのか検証してみましょう。
古田敦也氏がドラフト指名された1989年の秋に野村克也氏がヤクルトの監督に就任しました。監督になった野村克也氏は2つの理由から、古田敦也氏のドラフトでの獲得に懐疑的だったそうです。
1つは、古田敦也氏がメガネをかけている点です。メガネをかけている視力の弱い捕手はプロ野球では成功しないと当時はいわれていました。
捕手出身の野村克也氏も、それまでメガネをかけた捕手がいなかったことから、メガネが必要な古田敦也氏がプロで通用するとは思っていなかったようです。
2つ目は、大卒からの社会人だった点です。大学を経ての社会人で年齢がある程度いっていたために、すでに捕手として完成されていた古田敦也氏には伸びしろがないと考えたようです。
野村克也氏は高卒捕手を自分で育てたほうがいいと考えていたために、古田敦也氏の能力には疑問を持っていたといわれています。
1 / 3
続きを読む