王恭子さんは王貞治さんの前妻で2001年に亡くなりました。王恭子さんの死因はどのような病気だったのでしょうか。この記事では、亡くなるまで王貞治さんを支え続けた王恭子さんと、前妻亡き後に再婚した現在の妻、それから3人の娘についてみていきましょう。
王恭子さんは、王貞治さんの亡き妻です。2001年に57歳の若さで亡くなりました。
この記事では、結婚後に長年王貞治さんを糟糠の妻として支え続けた王恭子さん、王貞治さんが2018年に再婚した現在の妻、3人の娘たちについてみていきましょう。
まずは王貞治さんのプロフィールです。
生年月日 | 1940年5月20日 |
出身地 | 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区) |
国籍 | 中華民国 |
身長・体重 | 177cm・79kg |
投打 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手 |
生涯成績 | 通算22年 9250打数2786安打868本塁打 打率0.301 |
経歴 | 小学4年生のときに慶応大学医学部で野球部に入った兄の影響で野球チームを結成 中学生の時には地元の高校生と社会人主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に所属 都立高校に落ちて早稲田実業高校へ進学して野球部に入る 1959年に契約金1,800万円、背番号1の条件で巨人に入団 1977年9月3日世界記録となる通算756号本塁打を達成 1980年シーズン終了後に現役を引退し巨人の助監督に就任 1983年シーズン終了後から1988年まで巨人監督 1994年から2008年までダイエー・ソフトバンク・ホークス監督 ホークス監督退任後はソフトバンク球団取締役最高顧問に就任 |
王貞治さんといえば、1977年9月の世界記録樹立となるホームラン756号と、いまだにメジャーリーグでも破られていない生涯ホームラン数868本の世界記録です。
生涯で868本のホームラン数というのは、メジャーリーガーにとっても破ることが難しい数字で、海外でも王貞治さんに憧れている選手が多くいます。
WBCなどで王貞治さんの姿を見ると、アメリカや中南米の選手がサインや写真撮影を求めて今でも押し寄せるといい、王貞治さんは現在でも「世界の王」なのです。
現在でも世界的に破られていないホームランの世界記録を持つ王貞治さんの現役時代から巨人監督時代、ホークス監督時代を支え続けたのが、2001年に亡くなった前妻の王恭子さんです。王恭子さんとはどのような人物だったのかみていきましょう。
王恭子さんと王貞治さんが出会うきっかけになったのは、熱心な巨人ファンであった王恭子さんが、巨人が2軍の本拠地としていた多摩川グラウンドの練習に応援に来ていたことでした。
当時、王貞治さんがプロ1年目で、多摩川グラウンドで練習していた時に、まだ高校1年生だった旧姓小八重恭子さんは仲のいい友人とよく多摩川グラウンドの練習を見に来ていたといいます。
友人は大きな声で選手の応援をしていて、小八重恭子さんは控えめだったそうです。王貞治さんは控えめな小八重恭子さんに惹かれて交際を開始し、6年後の1966年12月1日に結婚しました。
王貞治さんの巨人での現役時代から、巨人監督時代、それからホークスの監督に就任してからの数年間、野球人として奮闘する夫を王恭子さんは糟糠の妻として支え続けました。
王恭子さんは2001年に57歳という若さで亡くなってしまいますが、その死因はどのようなものだったのでしょうか。
王恭子さんの死因は胃がんです。亡くなる3年前に胃がんが見つかり手術をしましたが、再発してしまい帰らぬ人となりました。
王恭子さんといえば、亡くなった後に遺骨盗難事件も起きています。東京都目黒区の円融寺にある王家の墓から、王恭子さんの遺骨が骨壷ごと失くなっていることに2002年12月に気が付きました。
その後、2003年12月にはホークス球団側に遺骨と引き換えに数百万円の現金を要求する電話がかかってきましたが、球団側は支払いを拒否しています。
遺骨を盗んだのが電話をかけてきた犯人と同一人物かどうかもわかりません。遺骨盗難は事件として報道されたので、もしかしたら盗難を知った別の人物が現金を得る目的で電話だけかけた可能性もあります。
現在まで、王恭子さんの遺骨は発見されておらず、犯人も逮捕されていません。この事件に対して王貞治さんは「妻は心のなかで生きている」と語っています。
王貞治さんは前妻の王恭子さんが亡くなった直後には、再婚することはないだろうと語っていました。しかし、2018年、78歳で再婚を発表しています。王貞治さんが王恭子さん亡き後に再婚した相手はどのような人なのでしょうか。
王貞治さんが再婚した相手は、王貞治さんよりも18歳年下の料亭の女将です。中洲にある老舗料亭で働いていました。再婚相手は離婚経験があり、自分の子供も3人いるそうです。
王貞治さんと料亭の女将の再婚相手との馴れ初めは、ホークスの監督に就任後によくその料亭に王貞治さんが通っていたことがきっかけです。
最初は友人程度の付き合いでしたが、王恭子さんが亡くなったあとで何かと身の回りの世話をしてくれるようになったといいます。
さらに、2006年に王貞治さんが胃がんの摘出手術をしたときには、闘病生活を献身的に支えてくれたそうです。
病気をしても、娘たちも成人してそれぞれの生活があり、妻にも先立たれた独り身では、王貞治さんも何かと心細かったでしょう。そのような時に、身の回りの世話をしてくれる女性がいたということは、心強かったに違いありません。
2006年に王貞治さんの胃がんの手術が成功したら、2008年から同棲を開始します。2009年には週刊誌にも激写されていますが、2人とも関係を否定することなく同棲を認め、幸せであると記者に対してのろけてみせたそうです。
王貞治さんの自宅を訪問したり、電話をしたりしたときも、相手の女性が「主人は不在です」と応答するなど、完全に夫婦としての生活を送っていました。
しかし、同棲開始から10年間も入籍しませんでした。同棲を続けて、周囲からも夫婦として扱われていたのに入籍しなかった理由は、娘たちの反対や、王貞治さんの娘たちに対する配慮があったといわれています。
王貞治さんの娘たちは、母である王恭子さんがとても苦労して野球人としての父親を支えていた姿を子供の頃に見ています。
その母がストレスが原因ともいわれる胃がんで早世したことで、父には母だけを想っていて欲しいという想いがあったようです。
また、そういった娘たちの心情を理解していた王貞治さんも、あえて入籍しようとはしなかったといいます。
しかし、特に再婚に反対していたといわれる王理恵さんも2度めの再婚をして身を固めたことで、王貞治さんは再婚に踏み切ったようです。
王貞治さんには、長女の理香さん、次女の理恵さん、三女の理沙さんの3人の娘がいます。王貞治さんの3人の娘についてみていきましょう。
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